当事者性について

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支援者が「助けたい」と思う瞬間、その感情はどこから来ているのだろうか。

目の前で誰かが苦しんでいる。
手を差し伸べたいと思う。
その衝動は自然なもので、疑う余地などないように見える。
けれど本当にそうだろうか。

その思いは誰のためにあるのか?

「助けたい」という気持ちの奥に、「助けられなかった自分」への埋め合わせが隠れていないと言い切れるだろうか。
あるいは、「役に立てている自分」を確認したいという欲求が、支援の形を借りて表れているだけではないだろうか。

これは支援者を責めるための問いではない。
動機が純粋でなければ支援してはいけない、という話でもない。

むしろ逆だ。

動機の中に自分のための部分があることを認められない支援者ほど、危うい。

「相手のため」だけで動いていると信じている人は、相手の反応に自分の存在価値を預けてしまいやすい。

感謝されなければ苛立ち、拒まれれば傷つき、うまくいかなければ自分を責める。

それは支援ではなく、依存に近い何かに変質していく

一方で、自分の中の欠落や痛みが動機の一部にあると自覚している人は、そこに一定の距離を保てる。

相手がどう反応しようと、それは相手の問題であって、自分の価値の証明ではないと切り分けられるからだ。

問うべきは、「動機が不純かどうか」ではない。

「その動機を、自分がどれだけ正確に見えているか」だ。

助けたいという気持ちを疑うことは、支援をやめる理由にはならない。

むしろ、その気持ちを疑い続けられることこそが、現場に立ち続けるための条件なのかもしれない。

あなたが今日、誰かを助けたいと思ったとき、その気持ちは、誰のためのものだっただろうか。

今一度考えながら支援に臨んでいきたい。